慰霊碑と慰霊の広場
一九四五年 (昭和 二十 年)年八月六日、
米軍の B29 が投下した一発の原子爆弾によって
膨大な犠牲者を出しました。
千人塚。
背景の建物は在りし日の旧馬匹検疫所
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
太平洋戦争における
似島の役割
軍は当時の似島陸軍検疫所を臨時野戦病院に指定し、負傷者の収容を開始。しかし収容所ではとても収まりきらないほどの人の数になり、多くはこの地で命を落としました。
その遺体は第二検疫所や馬匹検疫所(似島小・中学校)で火葬されたが、死亡者が余りにも多大であったため途中からは広場に大きな壕を掘ってそのまま埋められました。
1971 年 (昭和46年)10月、似島中学 校のグラウンドから 517 体の遺骨が発掘され、
翌年 11 月
原爆犠牲者の冥福を祈って慰霊碑が建立されました。
遺骨が発掘された場所は慰霊の広場となり、 地域の人たちによって花壇が整備されています。
碑 文
昭和二十年八月六 日 広島市は人類最初の原子爆弾によって一瞬のうちに二十数万人の死傷者を出した負傷者は各所に避難しここ似島にも一万人余に及ぶ人々が収容され応急看護の甲斐もなく死亡者が続出し混乱の中とはいえ一部は仮埋葬のままでこの地に眠り、悲しくも二十有六年の歳月が過ぎた昭和四十六年十一月はからずもこの地から遺骨が発見され推定五百十七柱を発掘し原爆供養塔に合祀したここに一周年を迎え諸霊の冥福を祈り平和への誓いを新たにしてこの碑を建立する
昭和四十七年十一月
広 島 市 長 山 田 節 雄
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原子爆弾によって耐え難い苦痛を受け、似島に運ばれてきて、治療を受けたくても受けられずに亡くなった事実がある。まして仮埋葬のまま…。その事実を聞くと、「今の私たちの生活」がどんなに尊いのかを感じることができる。改めて平和とは何なのか、平和を創るためには何をするべきか、後世にどう伝え続けるのかを考えていく必要があるだろう。
Museum
似島平和資料館
慰霊の広場に、似島の史実を継承するために2021年(令和3年)に建設されました。
写真とともに日清戦争、日露戦争から時代の流れに沿って当時起きた出来事を振り返ることができます。日清戦争時の検疫、当時の後藤新平、日露戦争時の検疫の写真などが展示されています。慰霊の広場から発掘された遺品・痕跡も展示物として残されています。
似島俘虜収容所について。俘虜は捕虜のこと。第一次世界大戦時に中国にいたドイツ兵や軍属が似島の収容所に送られて来ました。当時の日本は国際社会への仲間入りを果たすため条約を順守していたため、捕虜を雑に扱わずあたたかく迎えました。娯楽を自由に与え、捕虜の70%以上がなにがしらの講習に参加し、演劇・英語講座、ソーセージづくりなど、当時の様子を写真で見ることもできます。捕虜の一人であったカール・ユーハイムが日本で初めてこの地でバウムクーヘンを焼きました。彼が亡くなるまでの歴史や状況を一冊のユーモアある絵本にして展示されているのでおススメです。また、捕虜とのドイツ式サッカーでの交流は、後に広島県のサッカー技術の向上と普及に多大の貢献をもたらしたことでも有名です。
資料館自体は決して広くはないですが、当時の状況を写真、本、遺物を通して感じることができ、これまでとは違う角度でヒロシマと戦争について学ぶことができ新たな気持ちになりました。似島の資料は「口伝」をまとめ継承したものが多くあるということを心に収めました。資料館の外にある慰霊の広場は、似島小学、似島中学の児童生徒が名付けた「しあわせを願う塔」「平和を願う塔」という花壇があり、思いがとても伝わってきます。