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石碑
弾薬庫跡トンネル
石柱
桟橋
焼却炉
防空壕
資料館

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Ninoshima

似島の歴史を、もっと近くで。

知ってほしい。
聞いてほしい。
見てほしい。

似島の昔と今_____

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どこの説明を見ますか??

ガイドポイント1

旧第一陸軍検疫所跡
(現在は似島学園)

第1検疫所写真
第1検疫所
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
第一検疫所竣工時 右
第一検疫所竣工時 右
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
第一検疫所竣工時 中央
"第一検疫所竣工時 真ん中
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
第一検疫所竣工時 左
第一検疫所竣工時 左 提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
第一検疫所付図
第一検疫所付図
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
1895年(明治28年)の日清戦争終結後、ここ似島に陸軍の検疫所が建設されました。高圧蒸気で減菌をする、世界最初の装置が設置されました。当時、戦地ではコレラやチフスなどの感染症が広がっていて、国内での蔓延を防ぐため、戦地から戻ってきた兵士たちが、最初に上陸し検疫を受ける地となっていました。
第一検疫所 高圧蒸気滅菌窯1
第一検疫所 高圧蒸気滅菌窯 その1
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
第一検疫所 高圧蒸気滅菌窯2
第一検疫所 高圧蒸気滅菌窯 その2
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
第一検疫所 高圧蒸気滅菌窯3
第一検疫所 高圧蒸気滅菌窯 その3
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
第一検疫所 高圧蒸気滅菌窯4
第一検疫所 高圧蒸気滅菌窯 その4
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
兵士は未消毒桟橋から島に上がり、衣類を消毒している間に診察を受け入浴もしました。 感染がなければ、既消毒桟橋から艦船に戻り、ようやく宇品港(陸軍の軍港)から故郷に帰還することができました。
第一検疫所未消毒桟橋
第一検疫所未消毒桟橋
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
煙突
煙突
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
桟橋は石材を水平に積んだ構造になっています。平積みと言い、明治、大正時代の施工方法の特徴です。二つの桟橋のほかには、焼却炉の跡も残っています。学園の北端、海岸の近くに赤いレンガの煙突を見ることができます。
にのしま うわさ話
なぜ、似島に検疫所がつくられたのでしようか。その理由があります。「水と広大な平地があるから」です。似島には水があり、検疫所を運営するのにもってこいの環境があったのです。実は検疫所を作ると決まりどこに作るか話し合った時、広島湾に浮かぶ小さな無人島、「津久根島」を含む数カ所の島も候補だったそうです。しかし、水の確保とともに広大な平地が必要であることなどから、津久根島などは候補から外れ、似島に検疫所が作られました。

後藤新平の像

後藤新平
後藤新平の像
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
後藤新平
後藤新平の写真
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
後藤新平(1857―1929)は第一検疫所の施設の設計や建設を指揮した人物です。日清戦争の戦地から、多くの兵士の帰還が迫っていたため、第一検疫所はわずか2カ月の突貫工事で完成されました。しかもその防疫システムは現代でも通用するものでした。彼の功績を称えて昭和10年代に銅像が制作されましたが、太平洋戦争の末期に金属類の回収が全国一斉に行われ、それから逃れるため銅像を三分割して保管されました。戦後、繋ぎ合わせて復元された銅像は似島学園の敷地内にありましたが、2024年に天保山の傍の現在地に移設されました。以前は銅像の繋ぎ目を見ることができませんでしたが、今は間近に見て確認することができます。
後藤新平の人物像を、みなさんはどう見るでしょうか。後藤新平は、いろいろな経歴を持つ人物です。官僚であり、日本とソ連の間の国交回復に尽力した人でもあります。また、関東大震災直後、東京の復興を助けたそうです。「今後大きな被害を出さない都市をつくる」と宣言して、8 億円の経費を必要とする「帝都復興計画」というものを構想しました。現在の東京の礎をつくりました。また、岩手に生まれた彼が、何故広島の似島に検疫所を作ったのでしょうか。彼は、当時朝鮮半島からの多くの日本人帰還兵が一気に帰ってくることで多種多様の病原菌を持ち込むという状況の中で、検疫所を作ることを決めたのでした。帰還兵をひとり残らず検疫し、徐々に国内のコレラ患者が激減しました。いくら政治家だとしても、戦時中という状況で「日本人である」ということ以外に共通点のない人間のことを考えたり、批判されても耐えて続けたりするという行為はだれにでもできるものではありません。後藤新平という人物の人間性や科学的認識が見えます。また、国と日本人のことをよく考察し、その時の状況をうまく考え立ち回ったのではないかと考えられます。このような人物を振り返ることが、戦争について考えることになると感じます。

ガイドポイント2

旧陸軍弾薬庫跡地

弾薬庫建物B
弾薬庫建物 その1
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
弾薬庫建物A
弾薬庫建物 その1
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
弾薬庫倉庫配置図
弾薬庫倉庫配置図
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
似島にはかつて「弾薬庫」がありました。1919 年(大正8年)に南区皆実町にあった陸軍弾薬庫で事故があったため、同年以降、漸次弾薬庫は似島に移設されました。
トンネルA
弾薬庫へつながるトンネル その1
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
トンネルB
弾薬庫へつながるトンネル その2
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
爆発に備えて四方を分厚い土塁に囲まれた弾薬庫跡に続くトンネルがあります。当時は弾薬庫から似島学園の北側にある桟橋までトロッコレールがひかれていて、弾薬はトロッコで出し入れを行っていました。
歩哨塔
歩哨塔
弾薬庫の土塁の上には弾薬庫の周辺を監視するための見張り台(歩哨所)がいくつかあり、二か所現存しています。なぜこのような土塁で弾薬庫を囲んでいたのでしょうか。
弾薬庫建物 上から
弾薬庫建物 上から
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
それは、万一爆発した時に、石積みと土で固めた法面によって爆風が上空に吹き抜けるようにするためです。この土塁は太平洋戦争の時まで、使われました。

ガイドポイント3

陸軍・海軍石柱(堀口海産の前)

石柱
旧陸軍弾薬庫施設地区の境界標柱
似島の軍事施設とその周辺が機密保持等を含めて要塞地帯に指定され、民間人の立ち入りを禁止することを示すためのものです。旧陸軍弾薬庫施設地区の境界標柱 (高さ145㎝)は、陸軍が検疫所を建設する際に、未接収の民有地との境界を表示するために設置されたものです。 このように民有地との境界線を示さないといけなかったことからも、検疫所がし住民の生活圏の中で突然土地が接収され建てられたものだということがうかがえます。

ガイドポイント4

旧陸軍第二検疫所

第二検疫所
第二検疫所
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
第二検疫所内軍隊行動図
第二検疫所内軍隊行動図
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
1904年 (明治 37 年)の日露戦争開戦に伴い、第二検疫所が建設されました。第一検疫所と併せて東洋一の大検疫施設となりました。この時代、全国に5か所の検疫所がありましたが、日露戦争時の総検疫人員約129万人の半数にあたる66万人を似島の検疫所が担いました。
第二検疫所 検疫業務1
第二検疫所 検疫業務1
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
第二検疫所 検疫業務2

第二検疫所 検疫業務 その2
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
第二検疫所 検疫業務3
第二検疫所 検疫業務 その3
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
日清戦争時の検疫と比べると船舶・人員とも5倍の数に及んでいましたが、感染が非常に少なく、検疫伝染病も98名のみでコレラの発生はありませんでした。似島ではその後、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争の終結に至るまでの40年以上の長期間にわたり検疫が実施されました。
1945年 (昭和 20 年)8 月 6 日には臨時野戦病院となり、原子爆弾による負傷者約一万人が収容されました。被爆者を運び入れた桟橋は今も残っています。多くの人がこの地で息を引きとり、火葬されたり、土葬されたりしました。
にのしま うわさ話
日露戦争当時の検疫の様子はどうだったでしょう。装具や軍服の消毒は、薬と蒸気を用いていたそうです。日清戦争時には高圧蒸気を使用していたので1時間を要しましたが、高圧高温ホルマリン消毒にしたことで、半分の30分間に短縮し、能率が上がりました。兵士の消毒は、日清戦争当時と同様に石けんでするのみで薬物は使用しなかったようです。兵士は消毒(入浴)が済むと浴衣を着て大広間で休息し、装具や衣服の消毒を待ちました。似島の女性たちによって「ぜんざい」がふるまわれたそうです。伝染病の患者は、構内の検疫所付属病院に収容されました。ほかの罹患疑いの兵士は停留舎に10~14日程度、隔離されたようです。
×
にのしま うわさ話
被爆者を似島に運ぶ役割を担ったのは① (マルレ)、(レ)と呼ばれた特殊部隊でした。​この部隊の正式名は「陸軍海上挺進戦隊」といい、その設置目的と任務は水上特別攻撃挺に乗って、爆雷とともに敵艦に突撃する海の特攻隊でした。似島の対岸の江田島の幸の浦(こうのうら)を本部基地として、1944年(昭和19年)8月に突如として誕生しました。 原爆投下直後の8月6日午前11時 、広島市民を救出するための出動命令が出され、部隊は訓練を中止して、上陸用舟挺に分乗して正午過 ぎに字品に上陸しました。一隊は舟挺で河川を遡上して被災者を舟に乗せ、他の一隊は陸上で被災者を運搬する作業を担いました。​その隊員のほとんどが私たちの世代(19~20 歳)やそれよりも下の世代で、当時の恐怖の中での活動を想像すると同時に、平和に暮らしている私たちがこれからすべきことを考えさせられます。
日本軍 特攻艇
日本軍 特攻艇
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
×
軍用宇品線跡のモニュメントについて。日清戦争開戦直前の1894年(明治27年)に山陽鉄道が広島まで延長され、日清戦争の開始後には軍用宇品線が完成しました。全国から徴兵され、この路線を経由して、多くの将兵が宇品港から出兵しました。その軍用宇品線のターミナルの一部がこの似島に残されている。郷土史研究家である宮崎佳夫氏が、軍用宇品線跡の取り壊しを知り、軍港宇品と似島の結びつきを後世に伝えるモニュメントとして残すため、ここに設置されたものです。宇品線の方のモニュメントの上に立つと、当時ここに降り立ちこれから戦地に向かう兵士たちの視線と今の風景を重ね、「彼らはどういう気持ちでここに立ったのだろうか、今自分の目の前に広がるこの景色は当たり前のものではない、守らなくてはいけないものなんだ」と思いをはせることができます。

ガイドポイント5

馬匹(ばひつ)検疫所焼却炉跡
(似島歓迎交流センター敷地内に移設)

馬匹検疫所
馬匹検疫所
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
馬匹検疫所配置図
馬匹検疫所配置図
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
馬匹検疫所とは、戦地から帰還した軍馬の検疫を行う施設でした。 1940年(昭和15年)に現在の似島小・中学校の敷地に建設されました。
焼却炉跡
焼却炉跡
原爆により被爆負傷した多くの人々が臨時の野戦病院となった第二検疫所に運び込まれました。医療物資が極度に不足する中、多くの被爆者が亡くなりました。当初、遺体は一体ずつ火葬場で火葬されていましたが、死者が増えて火葬場だけでは間に合わなくなり、馬匹検疫所にあった焼却炉が火葬に使われました。
広島市が1990年(平成2年)に市営住宅の建設のため整地中に大量の人骨が発見されたのです。 発掘当時スコップ300杯以上の遺骨が確認されました。その焼却炉の遺構を保存するため、1990年(平成2年)に現在地に移設されたものです。

ガイドポイント6

防空壕

防空壕1
防空壕その1
防空壕2
防空壕その2
太平洋戦争の末期に掘られた防空壕が道沿いに見えます。似島に軍の施設があったために、空爆の標的になる可能性がありました。実際には爆撃は受けていませんが、原爆の被爆者の遺体を一時収容することにも使われました。
私たちが通った道路の山壁に、短い間隔でコンクリートによって入り口を固めた穴があった。そこは戦争時、似島において避難する場所として地元の人たちが協力して掘った防空です。広島市ホームページの広島市広報誌には「法面に 7 つの防空跡が残っています」と記載があるけど、ほんとうはもっとあるそう。私が見た防空の大きさは自動車の高さよりも大きいか同じくらいのもの。形はそれぞれ少し違っていて、それぞれ資材がままならない中で造ったのだろうかと思いをはせた。今では防空の周りを苔が囲んでいたり、植物が覆いかぶさっていて気づきにくいけど。目にすることがないからといって「当時の住民や軍関係者等がここに避難するという状況があったという歴史的事実を、通りかかる人に忘れられたくない、忘れてはいけない」と感じた。

ガイドポイント7

慰霊碑と慰霊の広場

一九四五年 (昭和 二十 年)年八月六日、
米軍の B29 が投下した一発の原子爆弾によって
膨大な犠牲者を出しました。
千人塚。
背景の建物は在りし日の旧馬匹検疫所
提供:似島歴史ボランティアガイドの会(無断使用を禁じます。)
太平洋戦争における
似島の役割
桟橋
軍は当時の似島陸軍検疫所を臨時野戦病院に指定し、負傷者の収容を開始。しかし収容所ではとても収まりきらないほどの人の数になり、多くはこの地で命を落としました。
その遺体は第二検疫所や馬匹検疫所(似島小・中学校)で火葬されたが、死亡者が余りにも多大であったため途中からは広場に大きな壕を掘ってそのまま埋められました。
似島供養塔
1971 年 (昭和46年)10月、似島中学 校のグラウンドから 517 体の遺骨が発掘され、
焼却炉
慰霊碑
翌年 11 月
原爆犠牲者の冥福を祈って慰霊碑が建立されました。
遺骨が発掘された場所は慰霊の広場となり、 地域の人たちによって花壇が整備されています。
花壇
原子爆弾によって耐え難い苦痛を受け、似島に運ばれてきて、治療を受けたくても受けられずに亡くなった事実がある。まして仮埋葬のまま…。その事実を聞くと、「今の私たちの生活」がどんなに尊いのかを感じることができる。改めて平和とは何なのか、平和を創るためには何をするべきか、後世にどう伝え続けるのかを考えていく必要があるだろう。
平和資料館の写真

Museum
似島平和資料館

慰霊の広場に、似島の史実を継承するために2021年(令和3年)に建設されました。
資料の写真1
資料の写真2
写真とともに日清戦争、日露戦争から時代の流れに沿って当時起きた出来事を振り返ることができます。日清戦争時の検疫、当時の後藤新平、日露戦争時の検疫の写真などが展示されています。慰霊の広場から発掘された遺品・痕跡も展示物として残されています。
似島俘虜収容所について。俘虜は捕虜のこと。第一次世界大戦時に中国にいたドイツ兵や軍属が似島の収容所に送られて来ました。当時の日本は国際社会への仲間入りを果たすため条約を順守していたため、捕虜を雑に扱わずあたたかく迎えました。娯楽を自由に与え、捕虜の70%以上がなにがしらの講習に参加し、演劇・英語講座、ソーセージづくりなど、当時の様子を写真で見ることもできます。捕虜の一人であったカール・ユーハイムが日本で初めてこの地でバウムクーヘンを焼きました。彼が亡くなるまでの歴史や状況を一冊のユーモアある絵本にして展示されているのでおススメです。また、捕虜とのドイツ式サッカーでの交流は、後に広島県のサッカー技術の向上と普及に多大の貢献をもたらしたことでも有名です。
資料館自体は決して広くはないですが、当時の状況を写真、本、遺物を通して感じることができ、これまでとは違う角度でヒロシマと戦争について学ぶことができ新たな気持ちになりました。似島の資料は「口伝」をまとめ継承したものが多くあるということを心に収めました。資料館の外にある慰霊の広場は、似島小学、似島中学の児童生徒が名付けた「しあわせを願う塔」「平和を願う塔」という花壇があり、思いがとても伝わってきます。